対岸の火事、高みの見物
今年の1月(あの頃はまだ世の中は平穏だった…)にカンボジアのシェムリアップを訪れたときは、カンボジアの人はみんなニコニコしていて明るくて素敵だなぁ…という印象を持ったものだったが、カンボジアという国の政治体制は、なかなかの独裁っぷりで知られている。
そこへ新型コロナの感染拡大に便乗して流れてきたのが、このニュース。
フン・セン首相に新たな強権 通信傍受・検閲可能に:日本経済新聞 https://t.co/a0qBlSaB3u
— アジアトラベルノート (@asiatravelnote) 2020年4月14日
「新型コロナウイルス抑制」を理由にして、どうして「通信傍受や検閲を許す」ということになるのか、その論理の飛躍にまず驚くが、とにもかくにも、カンボジアの強権的な独裁政治は、人権侵害と紙一重の新たなカードを手に入れることとなる(このカードは、あまり良いことには使われないような気がする…)。
日本では、幸いと言うべきなのか、不幸にしてと言うべきなのか、都市封鎖のような強権を発動するにも法的な根拠がなく、現在のような「要請」というかたちでしか対応ができない。一方で、ネット上では「このまま新型コロナ感染拡大の封じ込めが失敗すれば、その失敗を理由に緊急事態条項の憲法改正がしやすいのではないか」といった話題も、まことしやかに囁かれたりしている。
コロナ後にそういう話題になったとしたら、世論も含めて、大きな議論を巻き起こすことになるだろう。そして、いちばん恐ろしいのは、たいした議論もされずに、そういう方向に向かってしまうことだよな…と、カンボジアのニュースを見ながら思った次第。
これを、あくまで対岸で起こっていることとしてとらえるのかどうか。
とはいえ、もしも時の政権がそうした強権発動権を持っていても、緊急事態になる前に的確な判断と決断力があれば、そうした強権発動のカードを切らずに未然に防ぐことができるだろうし(理想)、決断が遅かったり判断が斜め上を行ってしまうような政権であれば、いくら手持ちの中に強権発動カードがあったとしても、たいして役に立たない紙くず同然のカードになるだけなのだろう(現実)。