繰り返すセコイズム。

せこくつつましく、セコ充を目指してセコ活をしています。

私は本が読めない。

自分は読書好きだと自認しており、本なんていつでもどこでも読めるものだと思っていた。しかし、仕事の行き帰りの電車の中でスマホをいじくりまわすということをしていたら、習慣とは怖いもので、本を読めなくなっていたのだった。いざ本を手に取ってみても、頭の中に入ってこない。数ページめくったところで、すぐにスマホをいじり始める。これでは、自称「読書好き」などと言いふらすのもおこがましい、いや、むしろ恥ずかしい。人の書いた長い文章を、頭の中で時間をかけながら筋道立てて追いかけることができず、短い散発的な文章を右から左へと読み流すばかりで、そういうことを繰り返していると、頭の中も様子が違ってくるらしい。本のような長い文章を読む場合と、ネットで単発的な文章を読むとでは、脳みその働く場所も異なっているのだろう。
完全に自分がスマホ脳に陥ってしまっていたことに危機感を覚え、これではダメだと気持ちを悔い改め、新しい年こそ長編小説を読もうと決心したのが2019年の暮れのこと。半年前である。そして、善は急げと、まずはとりあえず形から入ってみようか、やっぱり形から入るのも時として大切だよなと、年が明ける前に数冊の長編小説を買ってはみたものの、それらはとうとう読まれることもなく、新型コロナ感染拡大防止のための外出自粛期間でもせっかくの読書チャンスを生かせず、今年も半分が終わってしまったのである。高らかに決心し、本を買ったところで満足感でいっぱいになってしまったのだった。虚しい。

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2020年、まったく読まれない長編小説たち

とはいえ、スマホの洗脳から脱することができなかったのかといえば、そういうことでもなく、当初の「長編小説読破しまくり」という野望は無残に破れたものの、地元の図書館で本を借りたことをきっかけに、読書習慣への復帰は見事に果たせたのだった。何を今さらという感じであるが、図書館とは便利なもので、

 

①本を借りるついでに市内の他館の本や貸し出し中の本を予約をする。
②予約した本の到着連絡がメールでやって来る。
③2週間後に本を返しにいく。
④ついでに予約した本を受け取る。
⑤また予約を追加する(予約は上限いっぱいまで入れて返却待機)。

 

という具合に、一度この①~⑤のサイクルが回りはじめると、「2週間後に図書館に返しに行かなくてはならない」「取り置き期限のある予約本を取りに行かなくていけない」という、リミットを設けられた無限地獄のように、読書が続いてしまうのだった。うっかり1度に3冊4冊の予約本が届いてしまったりしたら、数日で1冊を読み終えなくてはいけないというプレッシャーに苛まれながら、さらに読書のスピードを速めなくてはいけないのである。ページ数が200~300程度ならまだ余裕だが、500ページくらいの本になると、絶望的な気持ちになる。もはや電車の中でスマホをちょこちょこいじっている場合ではない。そこでは時間との戦いが繰り広げられている。
今になって思えば、2019年の暮れに長編小説を読むという決心をしたときも、図書館を使っていれば違う結果になっていたのかな、と思わないでもない。本を買った自分に満足し、いつでも読めるという甘えを芽生えさせてしまったことが敗因だったのかもしれない。そして、私はまだまだ図書館予約無限地獄のさなかにあり、長編小説たちは読まれる機会を失われつづけているのである。