ソーシャルディスタンスで神輿は担げない
1月にカンボジアのシェムリアップに行ったのが、今となっては遠い昔のようだ。世の中の様子もいろいろ変わってしまった。そして、カンボジアから伝えられたこうしたニュースを目にすると、新型コロナの前に「負けた」と思ってしまう。
カンボジアの影絵芝居の一座が、新型コロナの影響で廃業。人形師は「忘れるなんてできない」と涙した。 pic.twitter.com/Igqb7wBaFH
— ロイター (@ReutersJapan) 2020年5月19日
罹患することは、たしかに怖い。超怖い。経済活動や生活様式への影響も甚大だ。スポーツや文化活動の停滞も、存続基盤を脅かされている。けれども、個人的には、こうしたニュースを目にすると、心が痛む。ひとつの伝統や文化を守り抜いてきた膨大な時間や、そこに携わってきた多くの人々、積み重ねてきた長い歴史が踏みにじられたような気がして、悔しいという思いしかない。
幸い、カンボジアの影絵芝居は政府の保護下で伝統文化は守られることになるという。翻って、日本の伝統的な文化や行事、風習、祭りなどはどうなのだろう。私自身も、日本のあちこちで伝統的な祭りや行事を見てきたが、中には、ただでさえ担い手が不足して存続が危ういものもあった。そして今、日本のどこかでも、新型コロナが決定打になって存続が困難になり、ひっそりと消えていく文化や行事があるのかもしれない。
はたして「新しい生活様式」の下で、祭りや行事はどのようなかたちになるのだろう。たとえば、東京の伝統ある祭りといえば、浅草三社祭や神田祭などに代表される「神輿」の文化だが、神輿を担ぐということは密着密集で、さらには掛け声で飛沫も飛びまくりだ。しかし、マスクをしながら無言で担ぐ神輿なんて想像しただけでぞっとするし、そもそも、ソーシャルディスタンスでは神輿は担げない。神輿の担ぎ手が少ない場合には、神輿にタイヤを付けて引っ張るということもあるけれど、そんな東京の神輿は見たくないし、想像もしたくない。これまた「負けた」という気分にさせられる。
浅草三社祭は、5月開催は中止になり、秋10月に延期になったが、それすらも開催されるのか分からないし、開催されるとしたらいったいどのような形式になるのかも分からない。いずれにしても、平常時のような形は難しいだろう。今は「仕方がない」こととはいえ、伝統や文化のあるべき姿を、もう一度、我々の手に取り戻せるのか。それは長い目で語られるべき、将来の日本の話でもある。