繰り返すセコイズム。

せこくつつましく、セコ充を目指してセコ活をしています。

本屋の平積みでたまたま並んでいた「土地」をタイトルにした2冊

本屋に立ち寄った時、平積み台に「土地」と付いたタイトルの本が2冊並んで置かれてあったので、続けざまに読んでみた。1冊は『白い土地』、もう1冊は『人間の土地へ』。前者は福島原発事故の帰還困難区域を、後者は内戦で混迷するシリアを舞台にしている。2冊の本はまったく別の題材を扱っていて、直接的なつながりはない…と思っていたのだが、読み終えて、ふと思った。

福島の沿岸部の町から逃れて避難者となった人たち、そして、シリアの内戦から隣国へ逃れて難民となった人たち。いずれも外的な要因によって自分たちの「土地」から離れざるをえなくなった人たちではないか…と。読書を重ねていくと、時として、こんな偶然の発見で楽しみが増す(本の内容そのものは楽しいものではないが…)。そういえば、2冊の本は、どことなく表紙の雰囲気も似ている。緑色をベースにしたバックに、題字には欠けたフォントを使っている。

人間の土地へ

日本人女性として初めてK2登頂に成功した著者が、その後の人生でシリアに砂漠の街に暮らす大家族と出会い、その中のひとりの若者と惹かれあい、内戦という苦難を乗り越えて結婚し、家庭を持つまでを描いたノンフィクション。 

人間の土地へ (集英社インターナショナル)

人間の土地へ (集英社インターナショナル)

 

著者の出会った大きな家族の中には、反体制活動に身を投じて行方不明になった者がいる。あるいは、政府軍として徴兵されて反体制派と向き合う者がいる。市民に銃を向けることに苦悩し、軍を脱走する者もいる。さらには、反体制活動に希望を見いだせずにIS(イスラム国)に投じる者がいる。そして、街と生活を空爆によって破壊され、人生をかけて築いてきたものを捨てて、隣国に逃れて難民となる者がいる。内戦によって分断されていく家族の姿は、痛ましいかぎりだ。

そうした苦難を乗り越えて、著者は一人の青年と結ばれるわけだが、それによって物語は新たな「視点」も獲得し、生き生きと動き出す。シリアに暮らす人たちへの愛おしさと思いやりばかりではなく、時には厳しい目も持っているが、それもこれも、シリアという国にもっと良くなってもらいたいという愛情の裏返しなのだろう。血の通った温かみと厳しさがあり、それでいて、しなやかさと軽やかさも持ち合わせたノンフィクションだった。

ところで、タイトルの「人間の土地へ」とは何だろう。とても抽象的だ。「人間として生きることのできる土地への希求」ととらえたが、その道はまだまだ暗く、困難であると思わざるをえなかった。

白い土地 ルポ福島「帰還困難区域」とその周辺

著者は朝日新聞地方局の記者。自身で浪江町で新聞配達に携わることによって、その土地に生活をする一人となり、聞き取りを中心としたルポルタージュ。 

タイトルの「白い土地」は、原発事故のあった福島県沿岸部で用いられている隠語「白地(しろじ)」に由来する。すなわち、

東京電力福島第一原子力発電所が立地する福島県大熊町などで使われている隠語。放射線量が極めて高く、住民の立ち入りが厳しく制限されている「帰還困難区域」の中でも、将来的に居住の見通しが立たないエリアを指す。

前半部分は、これといった目新しさはないけど、正攻法的なルポの手法で、その土地に暮らす人たちの物語を短編のように描く。しかし、任期途中で病気のために辞職し、そのまま帰らぬ人となった浪江町長(故・馬場有氏)を題材にした「ある町長の死」のあたりから、物語は切羽詰まる雰囲気を醸し出していく。そこには、東電や政府といった「中央」との温度差、事故当時の対応への怒りがあった。

そして、著者の違和感と怒りの矛先は、東京五輪を「復興五輪」として招致した政府に向けられる。今なお廃炉作業が続けられている福島を「アンダーコントロール」と言い切って五輪を招致した、当時の首相である安倍晋三を取材の場で問い詰める。

とはいえ、この本で語られる違和感や温度差は、私自身にも向けられてしかるべきものなんだろうなと、本を読みながら突き付けられている気持ちになった。東日本大震災福島原発事故のことは、だんだんと私の記憶から薄れていってしまっているが、今なお、その土地に暮らす人にとっては現在進行形の問題としてあるのが現実だ。

今年は、震災からちょうど10年。震災後、3度ほど宮城県石巻や女川を訪れる機会があったが、福島県の沿岸部は未訪問だ。昨年には常磐線も9年ぶりに全線開通したことだし、今年は何としても訪れてみたいものだ。

インスタントでアジアンフード(15)無印良品のレトルトを食す

先日、無印良品で温めるだけのレトルトを買ってきたのである。ガパオ(タイ)とルーロー飯(台湾)だ。外出もできるだけ控えなければならんということなので、前日のあまったご飯を使って、朝と昼で連続の無印良品レトルトだ。

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温めて、かけるだけ。

まずは、朝からガパオライス。目玉焼きをのっけてみる。

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私の写真の腕がイマイチなので、食欲をそそらない1枚になってしまった。

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肉がペースト状になってしまい、見た目的に、ガパオっぽい感じがしない。

ごはんの上にかけると、本場のガパオっぽい香りが立ち込めるが、匂いは抑え気味である。味は、ほとんど辛さを感じない辛さなので、パンチに欠けるかもしれない。ふぅ、からいからい…と汗だくになりたい人には物足りないだろう。

続いて、昼食にルーロー飯。セブンイレブンの煮たまごを買ってきた。

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たまごも、自分の手間は掛けずに、あくまでもインスタントにこだわる姿勢。

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たまごを余らせても仕方がないので、2個、添えてしまう。

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具は、豚ひき肉、たけのこ、きくらげ。

ごはんの上にかけると、八角の香りが漂う。 TBSの某番組のごはんにかけるだけランキングで1位にになったというだけあって、けっこうしっかりした味わい。汁だくなところは、好みが分かれるかもしれない。

Amazonプライムでアジア映画(24)『アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』とインドネシア大虐殺を考える

元旦から、インドネシア大虐殺をテーマにした映画と本である。新型コロナが感染拡大なので、初詣にも行かず、自宅で大虐殺の映画である。他にすることもないので、感想まで書いている。いったいなぜ、新年早々からこれらの映画を見てしまったのだろうかと、見終わった後に暗澹たる気持ちになってしまったが、時すでに遅しだ。気を取り直していこう。(※2021年1月時点のAmazonプライム特典視聴情報です) 

アクト・オブ・キリング

アクト・オブ・キリング』は、それはもう、公開当時には大きな話題になったドキュメンタリー映画で、インドネシアの民間人らが「共産主義者」のレッテルを貼られた人たちを次々と虐殺したという事件を題材にしている。加害者側の人間に取材し、インタビューのみならず、当時の殺害の手口を再現させるという独特の手法を用いている。殺害の再現に加害者側自らが立ち会うことで彼らの心理が大きく動き、インタビューで構成されただけのドキュメンタリー作品という範疇を飛び出して、ドラマを生み出している。 

ひとことで言うと、とにかく「胸糞の悪くなる」場面の連続だ。加害者側は、虐殺という行為を自らの手柄のように語り、喜々として殺害の手口をカメラの前で再現して見せる。
虐殺を行った人間たちは「プレマン」と呼ばれ、良く言えば民兵だが、実際には街のゴロツキでありヤクザのような存在も混ざっていた。そのあたりのインドネシアの当時の政治状況は、倉沢愛子氏のこちらの記事にゆだねるとして、彼ら「プレマン」は国軍の力をバックに共産主義者の虐殺を引き受け、事件から五十数年を経た今も、権力者側と親しく付き合って一定の力を保っている。当時のリーダー的な存在ともなれば、どこぞのヒーローでもあるかのように、幅を利かせて暮らしている。しかし一方、「共産主義者」として虐殺された被害者家族らは、今も息を潜めて暮らしている。憎しみも口に出すこともできず、感情を押し殺し、加害者と同じ町で生きていかなければならないという現実がある。

『ルック・オブ・サイレンス』

そして『ルック・オブ・サイレンス』は、被害者家族からの視点で描いた作品。『アクト・オブ・キリング』を対をなす。 

ルック・オブ・サイレンス

ルック・オブ・サイレンス

  • メディア: Prime Video
 

 虐殺で兄を殺害されたアディという眼鏡技師を通して、加害者側に迫っていくのだが、アディが加害者に罪を問う場面はとてもスリリングだ。アディに問い詰められた加害者側は、話を打ち切ろうとしたり、しどろもどろになったり、カメラを止めるように怒り出したり…と、その反応には、自分の過去の行為を正当化しきれないという罪悪感と後悔が、少なからず、かいま見えたりする。
被害者家族と加害者の対話が、何かを生み出すわけではない。虐殺という罪を認めるわけでもないし、仮に加害者側が認めたとして、それでアディの心が晴れるかといったら、たぶん、そうはならないだろう。世間的には『アクト・オブ・キリング』がセンセーショナルな印象を与えたが、私としてはこちらの『ルック・オブ・サイレンス』に強い印象を受けた。

この映画は、安易に答えを出せない倫理を喉元に突き付けてくる。私自身が虐殺者側と同じ立場に置かれたら、どう振る舞うだろうか?加担しなければ、自分が殺される側に立つかもしれない。いったいどうする?映画を見ながら、ずっと、その問いが頭の中を巡っていた。

インドネシア大虐殺 二つのクーデターと史上最大級の惨劇』

アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』の2本の映画の背景を知るには、インドネシア現代史の第一人者である倉沢愛子氏の著作が最適。いずれも2020年に刊行されたもの。

タイトルはインパクトが強いが、中身を読んでいくと、大虐殺前夜の政治状況から、クーデター、共産主義者の虐殺、スカルノ体制からスハルト体制への移行、スハルト体制の終焉…と、インドネシアの現代史が分かりやすくコンパクトにまとまっている。デヴィ夫人といえば、今やバラエティー番組の人というイメージしかないが、彼女が「デヴィ・スカルノ」だった頃、スカルノ体制の維持のために奔走していたんだな…ということも分かる。

『楽園の島と忘れられたジェノサイド バリに眠る狂気の記憶をめぐって』

衝撃度では、こちらの本の方が強い。陰惨な描写もちらほらと…。しかし、中身は分かりにくい。著者ご自身があとがきで述べておられるが、カタカナの組織やら登場人物やら地名が多すぎて、途中で何が何だか分からなくなる。地図は掲載されていたが、登場人物リストや組織の図表など、本作りのレベルでの工夫が欲しかった。
今や日本人にも大人気のリゾートであるバリ島もまた、共産主義者の大虐殺の舞台となった。
海岸や道路沿いの椰子の林の間には数多くの集団墓地があり(埋葬が追いつかないほど殺されたということだ…)、そして、その墓地はサファリパークなどの観光客のための行楽地に作り替えられ、トラクターが「歴史を浄める技術」として働いているという。島民の多くが観光に依存しているため、過去の歴史が明るみに出てリゾート地のイメージダウンにつながることを避け、加害者も被害者も黙殺をするしかないという矛盾の中にある。
…って、こんな本を読んでしまったら、自分はバリ島に行くことはないだろうな…(そもそも縁がなさそうだけど)。虐殺で亡くなった人たちの魂の上で、観光を楽しめるわけがない…。

とりとめなくアジア本を4冊

コロナ禍で旅に行けない日々が続き、台湾の夜市や東南アジアの市場で密になりたいという気持ちを抑えつつ、最近はアジア関連の本を読むことが増えている。映画も、日本の映画かアジア関係のものしか見ていない。しかし、そうしていると、いろいろなところで、あの本とこの本がつながって…とか、この映画があの時読んだ本とつながって…と、いつも広がりと再発見があって楽しい。今年刊行された本を中心に、とりとめなく4冊。

動きだした時計 ベトナム残留日本兵とその家族

ベトナムの風に吹かれて」(この本も面白い!)の著者である小松みゆき氏によるノンフィクション。太平洋戦争後、ベトナムに残留した日本兵がベトミン(ベトナム独立同盟)を軍事指導し、フランスからの独立戦争に力を貸していたことは、意外に知られていないのかもしれない。彼らは現地で家族を持ち、ベトナム名を名乗ってベトナム人として生きていたものの、ある時、日本への帰国の命が下る。日本は欧米とともに西側に属し、ベトナムは共産圏の東側の国という、国と国との思惑があったのだろう。残留日本人らは、家族を置いて日本へ帰国することとなる。

そして、著者の小松氏は、ハノイ日本語教師をしているときに、生徒から「私の父親は日本人」というひょんな告白を受けて、そこからベトナム残留日本兵家族の訪日に至るという、国を動かすまでの流れを生み出す。小松氏のフットワークのたくましさ、ネットワークを広げていく力には舌を巻くが、それを大げさなものと感じさせないような、飄々と軽やかな筆致だ。そして、離れ離れになったベトナムの家族の、日本人の夫あるいは父親への想いの強さにも驚かされ、胸を打たれた。

動きだした時計: ベトナム残留日本兵とその家族

動きだした時計: ベトナム残留日本兵とその家族

 

性転師 「性転換ビジネス」に従事する日本人たち

この本を読む前は、タイにおける性転換ビジネスの内幕を描いたもの…という先入観があったのだが、読み終わった今となっては、これを「アジア本」のくくりで紹介するべきではないのかもしれないと思い始めている。性転換手術を希望する日本人をタイ現地に送り届けるアテンド業の人たちがメインだが、日本で行われていた性転換手術の歴史、性同一性障害と医療制度の問題点、あるいは性同一性障害と戸籍上の性別といった法的な問題点…といった、日本の課題を明快に解いていく。サブタイトルばかりが目を惹いてしまうが、内容は硬派なルポルタージュなのだった。

ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く

日本の中の「アジアの異国」新大久保を描いた本。実際に新大久保に移り住んだ著者が、大久保の街を歩き、人に会い、食べ、そして生活者の目線で眺め…と、街歩きガイドとしても、人物ガイドとしても、食事ガイドとしても楽しめる1冊。もちろん、読み物としても面白かった。

新大久保というと、韓流ブーム以来の「コリアンタウン」というイメージが先行してしまうが、今やベトナムやネパールからやって来た人たちの姿を多く見かける。街を歩けば、たしかにベトナム料理やネパール料理のお店がたくさんあって、アジアな味が恋しくなると、しばしば食べに行ってしまう。今や市民権を得た韓国料理は日本人客の姿も多いけれど、ベトナム料理やネパール料理のお店は、その国の若者らが集う姿が目立ち、ローカル感にあふれていて楽しい。

ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く

ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く

 

 プラナカン 東南アジアを動かす謎の民

この本だけ、2020年刊行のものではなく、2018年刊。「プラナカン」とは、特定の民族を指すわけではなく、定義するとしたら「植民地時代のマレー半島を中心とする東南アジアに移住した中華系移民の子孫・末裔」ということになるだろうか。彼らは、現地で妻を持ち、独自の文化を繋いでいった。

とはいえ、プラナカンといっても、シンガポールのプラナカンは旧宗主国のイギリスと繋がりを持って富を築いた上流階級だし(リー・クアンユー元首相もプラナカンがルーツだった!)、マレーシアやプーケット(タイ)のプラナカンはまた別の文化や社会的地位を持っているし、ひとことで「プラナカン」といっても、住んでいる国・地域によって千差万別だ。この本を読み終えてもまだ、プラナカンとは何か?という問いに明確な答えは得られないかもしれないが、現地の習俗や文化と混ざり合いながら、しぶとく生き延び、多様さを生み出して様々な顔を持った存在が「プラナカン」なのかもしれない。 

プラナカン 東南アジアを動かす謎の民

プラナカン 東南アジアを動かす謎の民

  • 作者:太田 泰彦
  • 発売日: 2018/06/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

インスタントでアジアンフード(14)ブン・オック、再現できるかな

ハノイで食べたタニシの麺、ブン・オック(Bún ốc)。どうにかして、自分でもブン・オックを再現できないものかと思い、いろいろ買ってきたのである。カルディで売っていた「ディルスープ」なるものが、貝のエキスをベースにしているというから、タニシも同じ貝であるし、もしかしていけるんじゃないか?という淡い期待を持ちながら、作り始めたのである。

しかし、残念ながら、近所のスーパーでタニシは売ってないし、セブンイレブンで売っていた「あかにし貝」なるもので代用。

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ドンキのブン、7-11のあかにし貝、カルディのスープの素とパクチー

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残念ながらセブンイレブンでタニシは売っていなかったので、あかにし貝で代用。

ブンを茹でで、冷水で湯切り。ディルスープであかにし貝を軽く煮て、スープをつくる。「そういえば、ブン・オックはトマトの酸味が強かったよなあ」ということを思い出し、ミニトマトをどんどん投入する。

どんぶりに湯切りしたブン、そこにスープをかけて、はい完成。見た目は何となくいいじゃないか。

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見た目は、何となくそれっぽいぞ!しかし、当然ながら、味はやっぱり違う。

…と思ったものの、上品な味に仕上がってしまい、似て非なるものなのだった。ハノイの路上で食べたのは、もっとトマトの酸味が効いていて、タニシの独特の臭みとのコラボレーションが、だんだんとクセになっていく感じだった。カルディのスープの素で作ったのだから、まあ、仕方がない。これはこれで、味付けを間違えようのない、それなり美味しいブンになったのだった。

こちらは、ハノイの路上で食べたブン・オック。ホテルの近くの Bún ốc sườn というお店だった。地元の人たちで賑わっていたので、きっと美味しいのだろうと思って、ひとり飯。揚げパンも一緒に出してくれるので、みんなの真似をして、汁にひたしながらパンを食べたのだった。

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Bún ốc sườn。タニシは独特の臭みがある。